この記事は『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』という本をきっかけに、ウォルトの信念と現在進行形のディズニー・リゾートのすり合わせを試みる記事です。
この記事 こんな思いで書いています
この書評は、本の内容を整理するだけでなく、
中年期に感じる行き詰まりをどう越えるか
という視点で書いています。
※本の要点を先に知りたい方は、途中の見出しから読めます。
※ここからは、個人的な実感や迷いも含めて書いています。
Help me? ~いやあ、しんどいなあ
今回のお悩み:
「人混みが疲れるようになってきた。そんななかで、今度ディズニー・リゾートに行くことになった。しかも天気予報は雨らしい。果たして今の自分にとって楽しめるのか?」
何度か訪れているところですが…
今回のテーマは…
今回のテーマ:癒し(疲れた心を救う場所)
ディズニー・リゾートへの挑戦

若い頃は「ディズニー・リゾートに行く」それだけでテンションがあがっていました。
しかし今は「DPAどこで使おうかな」「雨降ったら嫌だな」「休日だと混むから平日行こうかな」などより楽しむことを考えて、昔のようなスペシャル感に浸れなくなりました。
恐らく費用対効果という言葉を覚え「どうせお金を出すんだから」という“おとな丸出しの大人”になってしまったからだと思います。
またディズニーの手の内をあらかた知り、最初は順調、予期せぬ騒動、すんでのところで脱出成功、ハッピーエンドではい終了、の流れだよないつも、なんていってその世界観を斜に構えて見たりして。
バカね起承転結の正しい
見本でしょうよアータ
そんなTHE大人を世の中では中年と呼ぶのでしょう。昔はあんな大人になりたくないって思っていたのに…
おいおっさんおまえの方がよっぽどつまんねえぞ
そんな矢先。次女の小学校卒業に合わせ計画していた旅行が、とある事情で中止となり、ならばと次女のリクエストで急きょディズニー・リゾートに場所が変更になりました。「どうせ行くならシーとランドどっちも行こうよ」という無邪気な声。おまけに予報はなんと二日間とも雨!
いいのか君たち、雨だぞ雨!
どうせならいい意味でしなびた温泉街とかほかにあるだろうに…と思っていたのですが、ふと考えた。
改めてだけど、なんでディズニー・リゾートってこんなに人気があるのだろう?
そんなとき、頭を過ったのが…
ウォルト・ディズニーってどんな思いでディズニーランドを作ったのか
私は思った。ウォルトの信念に触れれば、見方が変わるかも。
日本にディズニーランドが出来て今年で43年。なぜこの夢と魔法の王国はここまで我々の心をつかんで離さないのか。それが分かるかもしれない。
ならばこの本でしょう
その前にちょっと宣伝
◇ディズニー・リゾートで働かれている方々…お疲れ様です。

併せてご覧頂くと100%ディズニー・リゾートに行きたくなります!
Who are you? ~どんな内容?
109冊目はこちら!『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(講談社、2010年11月18日)でございます。
ウォルト・ディズニー伝記の決定版
著者はボブ・トマス氏。1922年生まれ。カリフォルニア州サンディエゴ出身。UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)卒。AP通信社のハリウッド・コラムニスト、また『Action』誌の編集長を経て、ハリウッド映画界についてラジオ・テレビ解説にも出演していた。ディズニーに関連する著作も多数執筆。
訳者はおふたりいらっしゃいます。
おひとりめは玉置悦子氏。島根県浜田市出身。奈良女子大学文学部史学科卒。米国ペンシルバニア州立大学大学院にて文化人類学を学ばれ、東京ディズニーランド開園プロジェクトで通訳者としてご勤務されました。
おふたりめは能登路雅子氏。青森県弘前市出身。東京大学教養学部教養学科卒。アメリカ地域文学研究をご専攻されたそうです。著者に『ディズニーランドという聖地』(岩波書店)ほか。
ミッキーマウスを創造した男‼
初のトーキー漫画映画『蒸気船ウィリー』を創り、『白雪姫』で初の長編アニメーションに挑戦。映画の世界を体験するディズニーランドというテーマパークを生み出した天才エンターテイナー、波乱万丈の人生。
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(表紙帯)
東京ディズニーランドのグランドオープンにあわせて、1983年に刊行された名著を完全復刻!
夢ときらめきが、まだ小さな星のように瞬いていたころ――ひとりの青年が、世界にやさしい魔法をかけました。ウォルト・ディズニーは、空想を信じ、何度つまずいても夢を手放しませんでした。やがてその想いは、ミッキーマウスという小さな仲間を生み、たくさんの物語へと広がっていきます。笑顔と希望を運ぶその世界は、やがて夢の国となり、多くの人の心をそっと照らしました。ディズニーの原点を、やさしい光とともに辿る一冊です。
五部構成、28項の構成。
ダイジェストでウォルト・ディズニーの生涯を追ってみましょう!
創造と冒険の生涯
第一部 中西部時代(1901ー1923)
ウォルト0歳から22歳まで
1901年12月5日。父はイライアス。母はフローラ。シカゴ、トリップ街1249番地。自宅の二階。夫妻にとって4男が誕生。その男の子の名はウォルター・イライアス・ディズニー。世界に夢と魔法をかけるため生まれてきた。
以後作中でもすぐウォルターでなくウォルト表記になります
兄妹は5人
そして3男・ロイ・オリヴァー・ディズニー。ウォルトの8歳年上のこの頼れるお兄さんが「ウォルト・ディズニー・カンパニー」の共同設立者であり頼れる金庫番だった。
兄弟であの世界を作り上げていったのねアータ
ウォルトはあまり勉強は得意でなかったが、マーク・トウェインを片っ端から読んだ。

『トム・ソーヤの冒険』が代表作!

ちなみに一部過去に訪れた写真も使用しています
小学校や中学校そして高校と絵が得意で、戦争に憧れていた少年は、1918年の夏、アメリカ救急部隊に入隊しフランス・パリで1年間過ごすことになる。
背丈が175センチ。フランス、そしてニューヨークを経由しシカゴに戻ったウォルト青年。父が薦めるゼリー工場の仕事に対してこう言った。
「父さん、僕はああいうタイプの仕事が好きじゃないんだよ」
(中略)
「そんなら、ウォルター、おまえ、いったい何がやりたいんだ?」
父は尋ねた。
「僕はね、漫画を描くアーティストになりたいんだ」
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(p80)
第二部 漫画づくり(1923ー1934)
ウォルト23歳から33歳まで
ウォルト、カンザスシティからハリウッドへ。1925年7月13日、トレースと彩色の仕事をしていたリリアン・バウンス(通称・リリー)と結婚。「ウォルト・ディズニー・スタジオ」設立。そして苦心の末伝説のキャラ、オズワルドを作り出すも所有権問題で他者の手に…
ギャー耳が長い
ミッキーじゃないか!
ウサギだからオズワルドは
じゃこっそり別キャラ作ろう。傷心のウォルトが汽車の中で思いついたのがミッキーマウスだった。『プレーン・クレイジー』『ガロッピング・ガッチョ』そして『蒸気船ウィリー』が誕生。1928年11月18日、今まで無音が当たり前の時代に、音が入った初めてのアニメーション漫画である本作品は大ヒット!1929年、ウォルトはミッキーマウスをライセンス発行。
ウォルトは、ミッキーの性格の多くの部分がチャーリー・チャップリンからヒントを得たものであるということを認めていた。
「チャップリンの、あの、ちょっともの寂しそうな雰囲気をもった小ネズミにしようと思ってねーー。小さいながらも自分のベストを尽くしてがんばってるっていう姿だな」
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(P129 ~130)
第三部 アニメーションの新世界(1934ー1945)
ウォルト34歳から44歳まで
1934年初めての長編映画『白雪姫』制作発表、1937年12月21日プレミアショー、そして大ヒット!しかし翌年最愛の母・フローラがロイとウォルトが両親のために購入した家でガス中毒死。
そしてこの時期、国内の産業同様ハリウッドでも労働組合の組織が進む。団体交渉の席に座り、従業員が労働条件を押しつけようとする姿を見たウォルトは精神的疲労と失望感から国外へ。その時訪れた南米で歓迎を受けたウォルト。その一つ、コロンビアの小さな町で、一行は汽船で川をさかのぼり熱帯雨林を見学。これがのちの「ジャングル・クルーズ」のヒントになった。しかしこの旅の途中で、遠い祖国で父・イライアスが亡くなる。

腰抜けな男たち
時代は第二次世界大戦の只中になる。ディズニーは戦争映画を何本も作った。
ウォルトは常に自分の名前を売り込むよう心掛けてきた。ウォルトがケン・アンダーソンという若いアニメーターへ自らの考えをこう述べたことがある。
「ケン、僕は君の仕事ぶりに感心しているよ。でも君はここに来てまだ間もないから、一つだけ言っておきたいんだけどね。我々が売っているものはただ一つ、“ウォルト・ディズニー”という名前なんだ。君がそのことを承知して、そのために働くことに満足できるのなら、君は僕のスタッフだ。でも、もし“ケン・アンダーソン”という名前を売り出したいのなら、今すぐここを出ていったほうが君のためだ」
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(P210)
この時代“ウォルト・ディズニー制作”という言葉は既にブランド化していたらしいよ
第四部 広がる地平(1945ー1961)
ウォルト45歳から60歳まで
この頃、ウォルトにはダイアンとシャロンの娘二人と日曜学校ののちによく遊園地に連れて行った。しかしそこは他の親が退屈そうにしていたり、回転木馬のペンキが剥げかかっていたり、園内が掃除が行き届かなく汚れていたり、むっつりとして無表情な係員がいたり。
この頃からウォルトは度々遊園地を作る計画を口にするようになります
名前は当初“ミッキーマウスパーク”だったらしい
一方映画は『シンデレラ』が白雪姫以来のヒット!続いては『ピーターパン』そして『海底二万哩』。イカとの格闘シーンは実に8日間撮影したという。





当時ウォルトは各国の遊園地を巡ったが、なかでもコペンハーゲンのチボリ・ガーデンをみたときに興奮した。ゆきとどいた清掃、鮮やかな色彩、納得できる料金に陽気な音楽が流れ、美味しい飲食物を味わえるうえ、温かな感じで礼儀正しい従業員。「これだ!本当の遊園地はこうでなくちゃだめだーー」
世界で3番目に古い遊園地!
この頃ウォルトははっきりとパークの名前を『ディズニーランド』と明言している。
そして1955年7月17日にアメリカ・カリフォルニア州アナハイムにてディズニーランドが開園。この日の入場者数は3万3千人。乗り物は故障、レストランの飲み物は品切れ、「おとぎの国」はガス漏れの通報があり閉鎖。ウォルトはこのオープンの日を“黒い日曜日”と呼んだ。

ミッキーがCelebreate Happy
踊ってる
第五部 そして、夢ーー(1961ー1966)
圧倒的成功を収めていたディズニーランド。ニューヨーク万国博覧会 (1964年)にて展示物のオファーが届く。最終的に4つの展示ショーを制作するが4つ目があの『It’s a Small World』だった。


じゃあ氣志團万博で『It’s a Small World』やったようなもの?
氣志團はフェスだろが
そしてアメリカ東部に第二のディズニーランドを。それも焼き直し以上のことをやる。場所はフロリダ。精力的に動くロイとウォルト。しかし無情にも病魔がウォルトに忍び寄る。
1966年。この年もウォルトは会社の飛行機で各地を飛び回った。フロリダのプロジェクトはディズニー・ワールドと呼ばれるようになった。9月16日、幹線道路の建設計画を州知事らと合同記者会見。これがウォルトにとって最後の記者会見となった。11月2日、セントジョーゼフ病院に入院、左肺にくるみ大の影が見つかる。12月5日、ウォルト66歳の誕生日。
12月14日、ウォルトは病室でロイと語りあう。
彼は正方形の主要地点をあそこ、ここ、と天井に向かってさし示した。ロイもまた、弟のそんなようすに勇気づけられ、帰宅すると妻のエドナに、あれなら回復の見込みが十分あると思う、と語った。
翌朝九時三十五分、ウォルト・ディズニーは急性循環不全のため、死亡した。
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(P360)
フロリダ・プロジェクトの正式名称は“ウォルト・ディズニー・ワールド”に決定。
ウォルトを追加した理由をロイは
こう語っています
「フォードの車は誰でも知っているが、創始者がヘンリー・フォードだってことはみんなが知ってるわけじゃない。ウォルト・ディズニー・ワールドという名をつけたのは、これがウォルトの夢だったのだということを、みんなにいつも知ってもらいたいからなんだ」
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(P364)
1971年10月。
ウォルト・ディズニー・ワールド開園。
そして同年12月。妻のエドナと息子のロイ・エドワード、そして子どもたちがディズニーランドのクリスマスパレードから帰ってくると、ロイがベッド脇の床に意識不明のまま倒れていた。
ロイはただちに救急車でセントジョーゼフ病院に運ばれたが、翌日、脳溢血で息を引き取った。
ロイもまた偉大な方でしたね
ウォルト・ディズニー逝去 翌朝のニュース
『ロサンゼルス・タイムズ』
「ディズニーは魔法の筆を持ったイソップ、カラー写真機を持ったアンデルセンであり、バリー、キャロル、プロコーフィエフ、ハリスなどの作家や作曲家が創りあげた登場人物に天才的な技巧で生命を与えた。……ショー・ビジネスの世界でこれほどまでに豊かな遺産を残した人物は他に類を見ない。
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(P361)
『ロンドン・タイムズ』
「比類なき芸術性と感動的な美をたたえた作品を作りあげた」
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(P361)
『ニューヨーク・タイムズ』
「絵を描く才能、大衆の夢にとにかくぴったりと合うその豊かな想像力、そして成功への執念。これ以外には何も持たず、無一文から出発したウォルト・ディズニーは、ハリウッドの大実業家となり、世界でも有数のエンターテイナーにのしあがった。新しいアイディアの導入にかけては天才的なその能力。膨大な作品の数々。ますます広範囲になっていった仕事に対しても自ら守りとおした確かな統率力。ディズニーの手は常に大衆の脈拍を感じとっていた。彼はいわば、自らが生きた時代の伝説的存在であるーーそうして意味で彼に与えられた栄誉は数知れない。しかし以上のどんな説明も、まだウォルト・ディズニーを十分に語ることにはならない。
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(P361)
パリの某紙
「世界じゅうの子どもたちが喪に服している。われわれ大人が子どもたちとこんなにも同じ気持ちになったことは、いまだかつてなかった」
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(P361)


オランダのある新聞
「世界じゅうの子どもたちの夢の上に数十年君臨した」王様であると評した。
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(P361)

メキシコシティの新聞
「大人の目に浮かんだ涙もけっして小粒ではなかった」
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(P361)
イタリア トリノのある論説者
「おとぎの世界に生命を吹き込んだ魔法の詩人」
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(P361)



デュッセルドルフの新聞
「ディズニーの真の価値を物語るものは、彼が獲得した数々のアカデミー賞よりもむしろ、老いも若きもがこぞって発したあの歓喜の声である」
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(P361)


アイゼンハワー元大統領
ディズニーの訴えたものや影響力の及ぶところは、この国のみならず、じつに普遍的であった。彼は、全人類がもつ共通の心の糸に触れたからだ。彼のような偉大な人物は、しばらく現れないであろう」
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(P362)
ちなみに当時現職のジョンソン大統領はホワイトハウスからリリーに哀悼のメッセージを寄せています
CBSテレビ 夜のニュース 解説者エリック・セパレード
コメントを抜粋して紹介します
ウォルト・ディズニーはおそらく、世界中の精神科医が治療したよりも多くの悩める心を癒やした。いや、すくなくとも、それを慰めるのに貢献したはずです。……ウォルト・ディズニーは、子どもの中には大人の要素はほとんどなくても大人の中には子どもの要素がたくさんある、という真実をちゃんと心得ていたようです。こんな憂き世ですら、子どもにとってはまったく新しい、きれいなリボンで飾られた贈り物です。ディズニーは、大人に対しても同じであるようにと努力したのです。
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(P362)
It rained on April 15, 1983.
1960年、たった3つの机から始まったオリエンタルランド。
オリエンタルランドってディズニーランドと違うの?
オリエンタルランドとは、千葉県浦安の埋め立て地開発を起点に誕生し、現在は東京ディズニーリゾートを運営する企業です。
埋め立て地に広がった新しい大地は、やがて夢を育む舞台へ。オリエンタルランドは独自のレジャーランド構想を描き、「すばらしい人間とその世界」という理想を胸に未来を思い描きました。海を越えディズニーランドやウォルト・ディズニー・ワールドへと夢を探しに行き、その輝きはやがて一つに結ばれます。
オリエンタルランドは海の向こうに夢を探し、ディズニーランドこそ理想と気づきました。幾度もの誘致と情熱が実り、1974年、運命の出会いが訪れます。空から見た浦安の地に可能性が輝き、夢は現実へと動き出しました。
長い交渉と努力の先に結ばれた約束は、やがて東京ディズニーランドという奇跡となり、ついに夢と魔法の王国のゲートが開きました。
ディズニーランドで学んだ志は、やがて日本の地で花開きます。情熱を受け継いだ人々が力を合わせ、「本物を造れ」という想いのもと夢を形にしました。幾多の困難を越え、1983年4月15日、あいにくの雨の中…
「1983年4月15日、ここに東京ディズニーランドの開園を宣言します!」
引用:東京ディズニーランド開業 | OLCの沿革・歴史 | オリエンタルランドについて | 株式会社オリエンタルランド
おい!1:49あたりでスペースマウンテンが見えるぞ!
この動画めちゃくちゃ面白い
動画の6:06あたり。アメリカ本社からの視察。営業担当ディレクター、ジャック・マイヤー氏へのインタビュー。
「問題はありません?」
「なにもない。ディズニーランドは日本でも人気を集めるだろう」
引用:【昭和映像アーカイブ】東京ディズニーランド開園前の舞台裏から開園初日のにぎわい
8:30あたり 「カントリーベア・シアター」
そして現在

雨のディズニーの真骨頂!
9:53あたり 「マーク・トウェイン号」
そして現在


これぞディズニー道!

10:51あたり イッツァ・スモール・ワールド
そして現在

動画のバックに流れるBGM、そして長めに映し出されるキャッセルカルーセル。この時点で動画の作成チームがディズニーランドをまだ「普通の遊園地」と考えているのが分かる。
スカイウェイがめっちゃ万博っぽい
ウォルトが語るディズニーランド
ここからはウォルトが理想としたディズニーランドの姿についてまとめてみましょう!
ディズニー・リゾートを思い浮かべながらお読みください
「ディズニーランドは子どもだけを相手に作ってるんじゃない。人はいつから子どもでなくなるというのかね。大人の中に、子どもという要素がすっかり消えてしまってると、君は言いきれるかい?いい娯楽ってやつは、老いも若きも、誰にでもアピールするものだ。親が子ども連れで来られるところ、いや、大人どうしで来ても楽しめるところ……。僕はディズニーランドをそんな場所にしたいんだ。
「ここがディズニーランドの中心で、ここから、それぞれ四つの“国”に行けるようになっているんだ」
・「おとぎの国」…青屋根の塔がそびえる「眠れる森の美女の城」
・「開拓の国」…マーク・トウェイン号がミシシッピ川を渡る
・「冒険の国」…熱帯ジャングル
・「未来の国」…巨大な月ロケットが空を指す
日本のディズニーランドはシンデレラ城ですよね
ウォルト夫妻はよく旅行に行った。そして二人は建築家のウェルトン・ベケット夫妻とともに西インド諸島にも何度か訪れた。その時の興味深いエピソードもご紹介します。
昔、海賊が住みついていたと言われるキューバの近く火山島にも四人は探検に出かけたが、この時の体験がその後、ディズニーランドの乗り物「カリブの海賊」を生むきっかけとなった。
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(P313)

2007年7月20日からジャック・スパロウが登場!めちゃくちゃ色気あるよなあのジャック!
また、骨董品屋を見てまわるのが好きなリリーのお伴で一緒に歩いていたウォルトは、プエルトルコで大きな籠に入った機械仕掛けの鳥を買い求めた。のちにお目見えしたパークの出し物、鳥のコーラスの「魅惑のチキルーム」はこの一羽の鳥を発展させたものだった。
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(P313)


ディズニーランドの説明文には…
「1955年のある日、ウォルト・ディズニーが世界じゅうのみなさま、そしてあらゆる年齢の子どもたちに、まったく新しいタイプの娯楽をお贈りいたしますーー」
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(P263)
「僕がディズニーランドの計画を始めたとき、家内は、『どうして遊園地なんて作りたいの?あんな汚いところ』って言いましたよ。だから僕は、まさにその汚いというところが問題なんだ、って説明した。つまり、僕が作るのはそういうふうにならないってことをね。
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(P355)
こんなきれいな遊園地ないよ
リリーさん


Present for you💐 ~揺さぶるフレーズ
ウォルト・ディズニー・ワールドが開園したその日。開園式にはリリーを始め、ディズニー家の全員が列席した。
そしてー。
「シンデレラ城」の鐘が『星に願いを』のメロディーを奏でる中、リリーはミッキーマウスに付き添われて斜面の通路を降りてくると、ロイと並んでスポットライトの中におさまった。人々が見守る中で、ロイは彼女に尋ねた。
「リリー、あなたはウォルトのアイディアや夢のすべてを誰よりもよく知っていた人だ。彼がこのウォルト・ディズニー・ワールドを見たとしたら、いったい、何と言ったでしょうか?」
リリーは答えた。
「そうですね。ウォルトは、よし、これで合格だ、って言ったと思いますね」
引用:『ウォルト・ディズニー 創造と冒険の生涯 完全復刻版』(P367)
ウォルトは東京ディズニーランドもディズニーシーも見ていないわけねアータ

合格だって言ってくれると
思います!

Thank you! ~55秒解決!
今回の【55秒解決!】
「雨ならでは綺麗なパークを満喫しました。夕暮れが好きなのでまた晴れている日に行きたいです。今度はニュースペースマウンテン!また娘たちと行こうとおもいます。その一方、妻と『子どもたちがもう少し大きくなったらミラコスタに泊まろう』とも約束しました」
おい子どもの要素刺激
されまくってるぞ
Let’s try it! ~いまからできること
①また行くためにお金を貯める
②DPAの使い道は前日までに決めておく
③リュックは軽めがいい。待ち時間に腰にくる
楽しかったんだなよっぽど






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